2度見必至の方言ムービーでバズった宮崎県小林市
今回の移住者が暮らす街は、宮崎県小林市。市の名前は全国区とは言い難いが、あることで非常に有名になった街だ。
”フランス語に聞こえる方言ムービー”といえばピンと来る方も多いだろう。2015年、ネットニュースやテレビで非常に話題なった動画だ。
宮崎県と鹿児島県の県境に位置する市で、霧島連山に囲まれた山あいの街。行ってみて驚いたが、街としてのインフラは整っているし、スーパーもホームセンターもドラッグストアもあり、非常に生活しやすそうというのが正直な印象だった。
小林市の魅力については下記の記事をぜひチェックしてほしい。
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【宮崎県小林市】移住先としてポテンシャルがハンパないことがわかる8つの理由/vol.5
そんな小林市に移住してきた田地祐造さんが、本記事の主人公だ。
虫が苦手、ガチなアウトドアも無理、お酒も飲めない40目前の会社員がなぜ移住できたのか
2013年10月から地域おこし協力隊として宮崎県小林市にやってきた田地祐造さん(42歳)。3年の任期を経た現在も小林市に残り、養蜂家として活動している。
生まれも育ちも東京という田地さんに、移住に至るまでの経緯を教えてもらった。
「移住前は東京でコクヨ株式会社に勤めていました。新卒から15年間勤め、キャリアとしては、3年目に社長賞をいただいたり、社長直轄の特別プロジェクトに参加したり、研究開発部門で新規事業を担当したり、自分で言うのもなんなのですが順風満帆なサラリーマン生活でした。そのままずっと転職もせず定年を迎えると思っていたんですが、少しづつ進む方向が変化していきました。
20代の中盤から友達との遊びの一貫でホタルを見にドライブに行くっていうのにハマり、そうすると、じゃあホタルついでに近辺の秘境の温泉宿に泊まったり、東京に帰る前に観光やトレッキングしたりという具合で、自然と親しむようになっていったんです。
でも、旅行から帰ると日常に戻ってしまうわけで、楽しい会社員生活でしたけど、非日常からの落差に、それこそ『朝起きて深夜まで働くのが有限な人生の貴重な時間に必要なのか?』と心の中のリトルジョブズが語りかけて来るようになってきました」
行った先でアウトドアアクティビティをしたり、旅行に行ったりするなかで、「自然のなかで暮らしたい」「地方で暮らすとどうなるんだろう?」という思いが生まれてきた。
「はじめは、ただ友達と遊びたいっていうだけでした、たまたまそれが旅行で。でも行ってみたら『こんな良い場所がいっぱいあるんだ』と感じるようになったんです。それで、住んでみたいと思うところまでは簡単にたどり着くんですけど、『住むにしてもどうやって生活していけばいいんだろう』と」
たいていの人は、ここでフリーズしてしまい、躊躇して移住に踏み切れない人が多いが、田地さんは違った。
移住先を決める前に、まずは行った先でできる仕事を考えた
「田舎暮らしだと新規就農というケースが多いけど競争率は高そうだし、僕は会社員だったので、農作業なんてやったこともありません。どうしたものかと考えました」
そこで目をつけたのがハチミツだった。
「旅行に行くとハチミツをお土産に買うことってありませんか? 選ぶ心理としては『ほかにめぼしい物ないし、ハチミツならみんな喜ぶし、お土産としてはちょうどいい』みたいな感じだと思うんです。実際、旅行に行くと僕も買ってました」
加えて、農業に比べて、養蜂なら競争率が低そうだという冷静な見立てもあった。
「最近、東京でも都市型の養蜂をしているところが多いので、そこで1年くらい一緒にやらせてもらいました。実は僕、虫が嫌いなんです。ミツバチに触れることができて、
ミツバチと触れ合うことはとても楽しく、養蜂家ってなんだか職業としてもロマンを感じる。ひととおりやるべきことは学習したのであとは実践だ! 将来を棒に振る覚悟で飛び込んでみよう! そう決意したんです」
移住先探しは難航……そのとき渡りに船が……
仕事への目算がついた田地さんは、いよいよ移住先探しを始める。どういうふうに探したのだろうか。
「移住の可能性を考え始め、移住相談会に参加し始めました。
しかし、生まれも育ちも東京で、田舎も無い自分には移住先の決め手になるようなものがなく、どこに住むべきか五里霧中で、初めのうちは仕事も養蜂と決めていなかったので具体性がないまま田舎暮らしに成功した人の特集を読んでため息をついていました。
そんなふうに何もわからない状態で、紹介されたところに行って滞在してみたけど、移住先を決意するほどのきっかけにはならず、日が過ぎていきます。東日本大震災もあり、
移住先探しを始めたとき、宮崎は特に意識していなかったと言う。どのタイミングで宮崎県が浮上したのか教えてもらった。
「土と平和の祭典という日比谷公園で開催されたイベントでニホンミツバチのハチミツを販売していた木工家具のお店でお話をうかがって宮崎県の諸塚村を教えていただいたのがきっかけです」
ここで宮崎県との接点が生まれた。
「諸塚村は宮崎県の北のほうにある人口は2,000人くらいの山あいの村です。そこにゴールデンウィークの1週間くらい滞在して、その後ももう一度行きました。このときの宮崎の印象がすごくよかったので、移住先は宮崎県に絞ったんです。これで大きく前に進みました」
地域おこし協力隊の存在を知り、情報収集
移住先を宮崎に決めた田地さん。それから具体的な暮らしのことを詰めていった。
「宮崎で会社勤めをしながら養蜂をやるのかなど、いろいろな可能性を考えました。それでググってるうちに地域おこし協力隊というのが引っかかって来たんです。当時は、始まってまだ1、2年で、制度のことはまったく知りませんでしたし、正直、名前から来る印象はあまりよいものではありませんでした。
でも小林市というところで募集していて、募集内容も自分のやりたいことに近いし、そもそもこんな移住前提で仕事ができるの!? と半信半疑で応募しました。期限ギリギリに、速達で(笑)」
移住のことを考え始めたのは2007年、2008年ごろ。相談会や検討している町に行ったのは2010年ごろ。小林市の地域おこし協力隊に応募して、実際に移住してきたのは2013年10月。田地さんの移住は、かなり長いスパンで実行に移されたのがわかる。自身にとっては、じっくりと考えたうえでの行動だが、周囲の反応はどういうものだったのだろうか。
「移住したときはもう38歳だったので、親の反応は『自分で決めたなら仕方ない』と。反対はそんなになかったですね。逆に同僚からは『すごい決断しましたね』と言われました。僕としては5年くらいかけてじわーっと考えてたどり着いたことだから、特に決断したつもりはなかったんです。でも、周りには『すごい決断』って言われるので、僕はなにか大きな間違いを犯したのかな、なにかの道を踏み外したのかなと、言われて初めてドキッとしました(笑)」
【vol.2に続く】
取材・文/george
【PROFILE/george】
茨城県東海村出身の32歳。インテリア雑誌、週刊誌、書籍、ムックの編集を経て、現在Webディレクター。4年前の朝霧ジャムに行って以来、アウトドアにハマる。現在は、アウトドを主軸にしながらも地方移住などローカルトピックにも積極的に関わっている。